暮れなずむ町の光と影の中で、死について思いを馳せてみる

こんにちは、 渡邊 由佳 ( @officeyuka )  です。

今回の記事は、労務のことでもなければお役立ち要素も特にありません。

ただ暮れなずむ町の光と影の中で、私を襲った思いを綴ったものです。

相次いだ2人の死

実は、この1ヶ月の間に2人の身内を相次いで亡くしていました。

1人は主人のお父様、もう1人は母方の親戚です。

2人とも、一緒に暮らしていたわけでもなければ濃い血のつながりがあるわけでもありません。血のつながりだけで言えば「遠い」関係に当たるでしょう。

だからといってその関係そのものが遠いかというと、それはまた別の話です。

主人のお父様のところへは、私が今の土地に引っ越してから毎月顔を出していましたし、もちろん主人を産み、育ててくれた大切な方ですから関係は短くとも深く。

一方の母方の親戚も、私が小さい頃はよく遊んでもらいましたし、夏休みには泊まりにも行くような関係でした。母にとっても近くに住む数少ない親戚として頼りにしていました。

 

そんな2人です。

私はどちらも、通夜から葬儀、最後焼き場でお骨を拾うまで参列させていただきました。

ちょうど 10月1日 から社会保険労務士として仕事を開始したところでしたから、仕事で大忙しでもなく、ましてや自営業。

悔いなく見送れたことは本当に良かったです。

死そのものに意味はない、けれど

私自身は、実の父を15年以上前に亡くしています。父は54歳でした。

当時の私は飲食店で店長として休みなく働いていて、父の死に目に会うどころか葬儀にも出ることができるかどうかという状況、のはずでした。

ところが、父の死の1ヶ月ほど前に私は激務で体を壊し、父が死んだときは奇跡的に休職中。余命が告げられた最後の2週間をできる限り父と一緒に過ごせたのです。

このことがあってから、私は「近しい人ほど、自分にとって何か意味があるとしか思えないタイミングで命を終えていく」と考えるようになりました。

 

本当は、死そのものに意味がないことはわかっています。

残された人間が、あれやこれやと自分に都合よく理由をつけているだけです。

でも、それでいいんじゃないか、むしろそうすべきじゃないかと私は思うのです、とても強く。

 

人の死に直面した経験のあるかたならおわかりいただけるでしょうが、そこにあるのは「圧倒的な絶望」です。

二度と戻らない命を前にして、私たちは何もすることができません。

そう、その死を受け入れることさえも。

 

だからこそ、たとえ無理矢理にでも死に意味をもたせることで、少しずつその死を受け入れることができるようになるのなら、自分勝手でも独りよがりでも意味を持たせればいい、そう思うのです。

命というバトンを受け継ぐ

では、私は2人の死に何を感じ、どんな意味を見出したのか?

私は2人から「命というバトンを受け継いだ」と、大げさではなく思っています。

 

2人の死のタイミングは、まさに私が社会保険労務士として新たな第2の人生をスタートさせたタイミングでした。

きっと2人は私のために己の命なんぞ投げ出してくれてはいないでしょう。

でも、私はたしかに受け取りました、命というバトンを。

だからこそ前に進まなければならないし、2人の思いを無駄にしてはならないし、社会保険労務士として1人でも多くの方のお役に立たなければと心に強く誓うのです。

最後に

この1ヶ月は本当にあっという間でした。正直なところ、あまり記憶がありません。

それでも、この記事を書くことで心の区切りをつけることができました。

これからの社労士人生、いろんなことがあるでしょうが、2人から受け取ったバトンをしっかり受け継いでいこうと思います。

 

最後に2人へ、贈る言葉を。

長い間お疲れ様でした。本当にありがとう。