こんにちは、どこに行っても関西弁の ゆかねぇ (@officeyuka) です。
自分の方言が大好きな人、方言なんて話したくもない、いっそ忘れたいという人。
地元に帰れば方言を話すけど、普段は標準語で話す人…。
今はメディアが発達し様々な言葉が聞けるようになった分、年配の方を除けば強い訛(なま)りの方言を使う方は随分と少なくなりました。
とはいえ方言は、単なる話し言葉というだけでなく私たちにとってアイデンティティそのものだと私は考えています。
※写真は京都の賀茂川。小さい頃いつも遊びに行っていた思い出の河川敷です。
帰省の楽しみ
ここ数年は世の中の情勢もあり、なかなかなかなか県をまたいだ移動ができませんでしたが、以前から私は年末年始にかぎらず定期的に帰省するようにしています。
今は愛知県に住んでいて、そこから実家のある京都へ。
京都には今も母が住んでいるので、母に会うために帰ります。
とは言っても生まれ育った街に帰るわけですから、母に会うこと以外にも楽しみにしていることがたくさんあります。
昔からよく行っているお店に行って買い物をしたり、思い出の場所に行ったり。
子供の頃にはなかったお店や施設ができていれば訪れたり。
「昔はこんなものがあったのにねぇ」なんて言いながら来(こ)し方に思いを馳せたり…。
そんななかでも、私が帰省の際にとても(とても)楽しみにしていること。
それは「ことば」です。
京都駅に降り立った途端、飛び交う言葉が変わり、お店に立ち寄れば店員さんと会話する言葉が変わる。
あたたかい。ほっとする。「帰ってきた」と思う。
それがすごく楽しみで、嬉しくて、ついつい無駄に(笑)店員さんとしゃべってしまうぐらいです。
もし会話ができなければ喧騒の中で立ち止まり、行き交う人々の言葉を空気のように大きく吸い込むことさえあるほど。
そして帰るときは「またしばらく関西弁(京都弁)が日常で聞けない」ということがめちゃくちゃ寂しく、辛い。
私にとっての方言はそれぐらい重みのあるものなのです。
方言=アイデンティティだと思う
「アイデンティティ」という言葉を辞書で引くと難しい意味がたくさんが出てきます。比較的簡潔だった wikipedia には次のように書かれていました。
1.同一性、独自性。
2.自己認識、身分証明。
wikipediaより引用
これでもあまりよくわかりません。
ただ、私が思うにアイデンティティとは自分を自分たらしめるものではないかと。
そして、方言というのはまさにその自分を自分たらしめるものの極みではないかと思うのです。
なぜか。
私たちが何か考え事をするとき、頭の中でどんな言葉が繰り広げられているかを考えてみてください。
自分ひとりで考えるとき、自分自身と対話するときって、自分が一番馴染んできた言葉=方言を使っているのではないかと思うのです。
方言だからこそ自分の本心が出せる。自分と向き合える。自分と対峙し、えぐり出せる。
これって、このブログのような書き言葉や標準語ではできないことなんじゃないかなと。
少なくとも私はそうです。
だから今の土地に引っ越してきたとき、飛び交う言葉があまりにも違ったため頭が混乱し、何も考えられなくなりました。言葉が怖くて外に出られなくなったほどです(本当に)。
この例はあまりにも極端すぎるかもしれませんが、言葉というのはそれぐらい人にとって大切なものだし、自分固有の言葉を奪われるということは「死」にも等しい。
私はそれぐらい重く考えています。
どんな言葉を使い、どう考え、どう表現するか
仮に方言がアイデンティティだとするならば。
言葉そのものもアイデンティティだと私は思っています。
どんな言葉を使い、どんなことを考え、どう表現するか。
それはたとえ同じものを見たとしても一人ひとり違うし、そこに個性があり、違いが生まれます。
そしてその際たるものがブログというメディアではないかと思うのです。
ブログは言ってしまえば個人の思いをさらけ出す場所。日々思い、考えていることを自分の言葉で表現する場所。
そこにはその人にしか書きえない言葉で書かれた、その人のアイデンティティがあふれています。
だから面白い、だから読みたい、だから書きたい。
そして、言葉が持つ力を存分に味わいたい。
そう思うのです。
最後に
普段当たり前のように使っている「ことば」。
でも言葉がなければ、人は考えることも他人とコミュニケーションを取ることもできず、自分を表現することもできません。
自分が自分であるためになくてはならないのが言葉というもの。
今一度その大切さを感じていただければと思います。